手紙

「せんせえ、さよおなら!」
 廊下越しに、まだ舌足らずな挨拶が聞こえてくる。その声に続いて、私の大好きな穏やかな声が聞こえてくる。
「はい、さようなら。また明日ね」
 私の目の前を、私の胸ぐらいの背の高さの男の子が駆け抜けていく。空色のランドセルはまだぴかぴかしていた。私は今男の子が出てきた教室を覗き込み、きょろきょろと見回した。先生以外誰もいなかった。ちょっと恥ずかしくて、そっと扉を開ける。
「せ、先生」
 声をかけると、先生は少しびっくりしたような顔をして、でも、すぐ笑顔になった。
「田崎さん、こんにちは。どうしたの?」
 私の名前、ちゃんと覚えててくれた――。そんなことが嬉しくて、私も笑顔になった。こわばりが取れない喉で答えながら、ポケットの中のものを差し出した。
「こ、こ、これ、読んでください」

 私は小さい頃からいじめられていた。多分何をしてもどんくさかったし、何よりもこの喋り方のせいだ。喋ろうとするとうまく言葉が出てこなくなってしまうのだ。変な喋り方。そう言ってからかわれた。喋り方の真似をされた。
 いじめられるよりつらかったのは、母にいじめの相談をしたときに言われた一言だった。
「だってあんた、実際変な喋り方じゃない。早くどうにかならないの、その喋り方」
 そのときから、親とか先生とか、大人というものが信用できなくなった。保育園の先生は母親ほどあからさまじゃなかったけど、なんとなく気を使っているのがわかった。私、変な子なんだ……。先生も言わないけど変な子って思ってる。そんな意識が胸の奥の方に常にあって、ふとした瞬間、何もないのに涙がこぼれた。
「せ、せせ、せんせい、さ、さ、さようなら」
 帰りの挨拶をすると、後ろから男の子たちがはやし立てる。
「せ! せせ! せんせい~、さ! さ! さようなら~! あはは、変なの!」
 その声に、母親が嫌そうな顔をする。先生も困ったような顔で、注意はする。でも、強い口調じゃない。帰りの挨拶の瞬間が、何よりも嫌いだった。
 唯一私がちゃんとできたのはお歌の時間だった。歌うときは、変な喋り方にならずにちゃんと歌えた。歌うのは好きだった。

 小学校に入ってからも、相変わらずいじめは続いていたけれど、保育園のときよりも女の子たちがかばってくれるようになった。女の子の凄みに負けて、あからさまないじめがなくなったのは助かったけれど、周りの子達がお姉さんになってしまったみたいで、なんだか寂しかった。守られる私と、守ってくれる周りの子達。――私もお姉さんになりたいな。でも、良いよって言ってくれるかな。
 もやもやを抱えたまま、気づいたら小学3年生になっていた。先生――山本先生に出会ったのはその頃だった。新学期、新任の先生として入ってきたのが山本先生だった。きれいな薄桃色のスーツに身を包んだ、にこやかな女の先生。それが先生の第一印象。
 挨拶で壇上にあがる途中、階段の二歩目で、階段につまずいてよろけた。その瞬間、周りからどっと笑いが巻き起こる。私はその笑い声に、先生が怖気づいてしまわないだろうかと、どぎまぎしながら先生を見守った。先生は体制を立て直すと申し訳なさそうにぺこぺこしながら、すっと胸を張り直して壇上にあがった。
「はじめまして、山本です。……皆さんも今の私のように失敗することがあるかもしれません。でも、くじけず、へこまず! 失敗があるからこそ、人は成長できるのです。失敗は悪いことではありません。そのことを皆さんと一緒に学んでいきたいと思っています。よろしくお願いいたします」
 壇上から戻ると、体育の大坂先生にこづかれていた。そこでも少し笑いが起きる。笑いの中で、私はぼんやりと先生の言葉を反芻していた。――失敗は悪いことじゃない。
 私が我に返ったのは、先生が担当するクラスが発表された時だった。3年2組。私のクラスだ!
 新学期で一番ゆううつなのは、自己紹介の時間だ。皆が見てる前で長々と自己紹介するなんて、信じられない。教室に戻った瞬間から、私はため息がとまらなかった。先生は最初に見たときのまま、にこにことした表情で言った。
「それじゃあ、出席番号順に自己紹介をお願いします」
 青山くんから始まって、じわじわと順番が迫ってくる。皆なんてことなくすらすらと喋っていく。……瀬戸さん、園田くんと来て、いよいよ私の順番になった。重たい腰をあげ、ゆっくりと椅子を引く。
「た、た、田崎、れれれ、れいかです」
 名前を告げた瞬間、教室の隅の方からくすくすと笑い声が聞こえる。顔から火が出そうだった。先生がきょとんとした表情で言った。
「なんで笑っているの? 何もおかしなことなんて言っていないのに」
 次にきょとんとしたのは、隅で笑っていた男の子の方だった。
「田崎さん。続けてくれる?」
「は、はい……。す、す、すきな教科は、お、おお音楽です。よ、よよよろしく、お、おねがいします」
「ありがとう」
 先生はにっこりと微笑んでくれた。その笑顔に、私は少しほっとした。

 先生は、皆の良いところをほめるのが上手かった。絵を描くのが上手、字がきれい、分からない子に勉強を教えてあげるのが上手……言われるたび、皆うれしそうな表情になった。私も、あんな風にほめられてみたいな。
 それは、音楽の時間だった。その日はテストで、先生の前で一人ひとり歌を歌うことになっていた。いよいよ、私の番がせまる。
「大丈夫よ、緊張しないで。いつも通り歌ってね」
 そう言って、先生がオルガンを弾き始める。そうだ、大丈夫。最初の一音目に乗せられれば大丈夫――。歌い始める。歌えている。喉はこわばらなかった。言葉をすらすらと続けられる。心地よかった。
 私の歌が終わる。先生のオルガンが止まる。
「田崎さんの歌声はとてもきれいね。素敵な声ね」
 そう言って先生が笑う。……そんなこと言われたの、初めてだった。声をほめられるなんて。
 その日は、すごく周りの景色がきらきらして見えて。帰り道、思わずひとりでに歌を歌いだしてしまう。――そうか、私の声って素敵なんだ。私って、大丈夫なんだ。思わず顔がにやけてしまっていたようで、母に
「いやね、ずっとにやにやして。何かあったの」
なんて聞かれてしまう。
「べ、べべ別に、なな、何も、なななないよ」
 声が震えるのは変わらない。だけど、なんとなく大丈夫だって思えた。震えてたって、先生がほめてくれた私の声は変わらないもの。

「皆で、合唱大会に出ましょう」
 6月のある日。それは突然だった。先生が持ってきたポスターには、県の合唱大会の案内が出ていた。男の子たちがぶーぶー言って、それを女の子集団がたしなめる。
「実はね、このポスター持ってきてくれたの、森田さんなの」
 先生に促されると、森田さんが前に出て、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「あの、きっと思い出になると思って……私、皆と思い出を作りたくて……」
 ちらり、と私の方を見た気がする。――森田香苗さん。静かな子だけど、1年生の頃、いじめからかばってくれた。
「いいね、やろうよ!」
 リーダー格の女の子が言った。この子が言うと、まさに鶴の一声という感じで、なんでも決まってしまう。男の子たちの中に、何か言いたげに口をもごもごさせている子がいる。でも、結局何も言わず、来週から週に3回は全員参加で、それ以外の人は参加できる人だけで、練習が始まることになった。
 私は、家に帰るなり、母に言った。
「ら、らら来週から、が、が合唱のれ練習をするんだ。が、がが合唱のコ、コココンクールに出るの」
「ええ? あんたコンクールなんて大丈夫?」
「き、ききっと、だ大丈夫、だよ。み、みみ皆、いい、いっしょだ……し」
 ふうん、と興味なさげに答えた。……大丈夫。練習が始まってしまえば、きっと楽しいから。

 練習は最初はとても和気あいあいとしていて楽しかった。しかし段々と、練習に毎回参加できている子と、なかなか参加できない子の差が開いてきているのが分かった。それが面白くなかったのか、男の子がふざけた調子で歌い始めた。
 ピアノを弾いていた森田さんが不安そうな表情をする。後ろで見ていた先生が、ぴしゃりと言った。
「コンクールは競争です。思い出づくりと言っても、適当にやるのは他の人達に失礼になります。
やるなら、きちんと真剣に」
 普段にこにこしてばかりの先生の厳しい口調に、男の子がしゅん、となる。先生はいつものやわらなかな口調に戻って言った。
「……コンクールは皆で作り上げるものでもあります。
周りに歌い方が難しいな、と感じている人がいたら、教えてあげてください」
 その声に、ぽつり、ぽつりと教え合う声が聞こえる。
「どうせ優勝は第三小学校だろ」
 そんな中、誰かがぽそりと呟いた。第三小学校は合唱コンクールの常連校だ。それはもはや、この地域の常識だった。空気が淀む。皆なんとなくで参加を始めたけど、思っていたよりも大変だったというのが正直な気持ちなのだろう。
 森田さんの表情も曇る。……合唱コンクールに出ようと言い出したことで、森田さんが責められるのは嫌だと思った。
「あ、ああの」
 私は声を絞り出す。男の子がぎょっとした表情をする。
「……なんだよ」
「た、たたた大変かも……し、しれないけど、わ、わわ私は、み、みんなと、コココ、コンクールに出たい。
わ、わ、たし、しゃべるのは、こ、こここんなんだけど、う、うう歌うのは、ちゃ、ちゃんと、で……できるから。
だ、だだだから、み…みんなと」
「あー、もう、分かったよ!」
 男の子は気恥ずかしそうに頭をぽりぽりとかく。そこからは皆真剣だった。いつもはふざけている男の子たちの、あんなに真面目な表情を初めて見た。休み時間にも皆集まって練習をした。――気がつくと梅雨は明けていた。

 コンクール当日、学校に集合して、皆でマイクロバスに乗り込む。ついにこの日が来た。私は窓の外をぼんやりと見ていた。段々と、見慣れない風景になっていく。車内では女の子たちが互いの衣装姿にきゃあきゃあ言っている。
 会場に着いて、順番が近づくと段々と言葉少なになっていく。舞台に出る直前、森田さんがぽつりと呟いた。
「私、皆とコンクールに来られてよかった」
 照明がかっと照らす。ひたすら明るくて、少し熱いぐらいだ。ちかちかする照明の隙間から、人の顔が見える。……思っていたよりも人が多い。無意識のうちに喉がこわばりそうになる。――大丈夫。最初の一音に声を乗せられれば、大丈夫。深呼吸してすっと前を見た。
 ……伴奏が始まる。私はただ、音に身を任せよう。私が楽器。いつもこわばっている私の喉は、音を通すための、楽器の一部分。一音目はそっと。乗った、乗った。音に、声が乗った。歌える。ちゃんと歌えている。
 音楽は楽しい。普段うまくしゃべれないこと。常に緊張してしまうこと。そんなこと全て忘れてしまう。気がつくと夢中だった。
 ――あ、曲が終わってしまう。もっと、もっと歌っていたい。そんな気持ちで、最後の一声を絞り出した。
 舞台の裏側にはけると、皆一斉にわーっと声を出した。私は女の子たちにかこまれる。森田さんが私と握手して、他の女の子たちに肩を組まれる。……皆の輪の中に入れたような気がして嬉しかった。ふいに先生の方を見る。目の端にきらきらとしたものが光っていた。先生は顔をぱんぱんとはたいて、ふっと息を吐いた。
「本当は審査結果の発表を待ってから言うべきだけど……皆さん、よく頑張りましたね」
 そう言って、先生はいつものような笑顔を浮かべた。皆の顔も晴れやかだった。
 ――結局、優勝したのは、前評判通り第三小学校だった。それでも、合唱コンクールの前にただよっていた、「どうせ……」というどんよりした空気はなかった。帰りのマイクロバスの中で、皆に囲まれる先生に、私はどうしても声をかけられなかった。
 ――先生、ありがとう。そんな言葉が、ずっと頭の中で響いていた。
 合唱コンクールが終わって2週間、帰りの会の時、先生が森田さんに声をかけた。森田さんが前に出る。
「実は、私、引っ越しをするんです」
 森田さんが涙ながらに言う。
「最後に皆とコンクールに出られてよかった」
 森田さんの言っていた思い出づくりの意味を、そこでようやく理解した。帰りの会が終わったあと、女の子たちに囲まれる森田さんをぼんやり眺めていると、森田さんが私の方に近づいてきて言った。
「ありがとう」
「わ、わわ私こそ、あ、ああありがとう」
 ありがとうの一言を伝えるだけでもちゃんと言えなくて。そして、ありがとうを言える相手はいつかは会えなくなってしまうかもしれない。まだ言えていないありがとうが、頭の中で響いていた。

 気がつくと、小学6年生になってしまっていた。来年からは中学生らしい。あの時言えなかった言葉を、どうしても言わなければいけないと思った。ずっと、どうやって伝えたら良いか考えて、考えて、時間ばかりが過ぎてしまっていた。
 算数の授業中、私ははっと気がついて、椅子の上で思わず飛び上がった。……周りの子がくすくすと笑って、とっても恥ずかしかった。……週末、文房具屋さんで、棚に並んだ商品とひたすらにらめっこする。こんなに真剣に何かを選ぶのは初めてだった。
 そして、今日、月曜日。どぎまぎとしながら、1年生の教室がある2階に足を踏み入れた。
「せんせえ、さよおなら!」
 元気な声に、私の緊張はますます増していく。そっと扉を開けて、山本先生に声をかけた。
「せ、先生」

 先生は、私の差し出した紙をそっと開いた。かわいらしい便箋に、私のくしゃっとした字が並んでいる。私はどぎまぎと、先生の顔から目をそらす。視界のはしで、先生が私の手紙をじっと眺めるのが見えた。

 ――山本先生。ちゃんとした手紙なんて初めてで、上手く書けるか心配だけど、きっと喋るよりは上手くできると思うから。3年生のとき、私の歌をほめてくれてありがとう。それまでほめられたことなんてなかったから、すごくうれしかったです。あのときから、少しだけ自分に自信を持てるようになりました。合唱大会は人がたくさんいて、ただでさえあがり症なのに、とっても緊張した! でも、私、ちゃんと歌えたよ。あのとき、先生の目にちょっとだけ涙がにじんでたのが忘れられません(先生はごまかせているつもりだったみたいだけど……)。山本先生。みんなの良いところをちゃんと見つけてくれて、みんなに嬉しいことがあったとき、自分のことのように喜んでくれる先生のことが大好きです。……今まで誰にも言わなかったけど、私の夢は、山本先生みたいな先生になることです。もう少しで小学校も卒業だけど、本当にありがとう。 ――田崎れいか

 手紙を読み終えた先生は、またあの時と同じように、顔をぱんぱんとはたいて、こぼれそうになる涙をごまかしていた。
「せ、せんせい、そ、そそれ、ごごごまかせてないよ……」
 こわばる喉で伝えながら、私はにっこりと笑った。先生も優しく微笑み返してくれた。窓の外は今日もきらきらと光っている。

(終わり)

後書き:手紙