第三話:出会い系の女

 目を開けるとまぶたが腫れぼったかった。カーテンの隙間から朝日が射し込んでいる。どうやら目覚ましもかけず寝てしまったらしい。私はため息をついた。時計を見るとなんとか遅刻せずに間に合いそうな時間だ。……こういうとき、身体が社会人としてのリズムを覚えてしまったのだと実感する。
 トーストをくわえながらまぶたをぐっと押すと、夜のうちに溜め込まれた涙がぽたぽたと落ちてきた。どれぐらい泣いたのだろう。覚えていないし、もはやそんなことに思いを馳せている余裕はなかった。トーストの最後の一かけを口の中に無理やり押し込み、水で流し込む。手早く化粧をすると服を着替えた。髪を整えながら、もうすでに頭の中は仕事のことでいっぱいだった。今日やるべきタスクを洗い出し、優先順位をつけていく。あらかた洗い出しを終えると、息を一気に吐きだし、目に力を込めた。社会人になりたての頃からやっている朝の儀式だ。これをすると、「モード」が切り替わる気がする。
 高いピンヒールを履くとより一層気持ちが入る。……そうだ、仕事をしている限りは大丈夫。幸いなことに社会人としての私はそれなりに評価されていた。仕事をこなしていれば皆それで納得するのだ。私の中身など気にもとめない。プライベートの会話をすることもあるが、それはコミュニケーションを取っているという、ある種ポーズのようなもので、言葉は表面をただたださらって閉じる。朝の満員電車だけはいまだに好きになれないが、それ以外は私は今の仕事に満足していた。
 収入がなくなることへの恐怖心もあった。お金を稼げなくなった瞬間、私は私としての価値を失うのだ。やりがいとか、そんなものはとうになく、ただ、仕事をしている。私にとって仕事は息をするのとほぼ同じだった。

「おはようございます」
 ぱらぱらと返ってくる挨拶に、一際無気力な返事が混ざる。
「おはよ……ざっす」
 あくびを噛み締めながらそんな返事を返したのは、最近うちの部署に配属された新人だった。……確か名前はヤマナカくん。やる気の無さが全面に押し出されているが、配属されてからの1ヶ月で、割合要領が良いタイプだというのを感じている。……彼みたいなタイプは損だと思う。頼まれてもいないのに勝手にハラハラとしてしまう。彼の2回めのあくびを眺めながら、私はまだ引きつっている笑顔を顔に染み込ませるべくマッサージをしていた。
「おはようございますう」
 間の抜けた挨拶が飛び込んでくる。カラフル弁当の後輩だ。彼女がヤマナカくんの教育係だった。ヤマナカくんの隣の席に座ると、パソコンを立ち上げながらにこやかに彼に話しかける。返ってくる返事は気のないものばかりだが、相変わらずにこにことしていた。私みたいに張り付いた笑顔ではない。それはさすがだな、と思う。
 どうやら、褒めて伸ばすのが彼女の教育方針なのか、定期的に「すごーい!」とか「さすがあ!」とか言った声がフロアに響く。彼にその方針が効くのか、少し疑問だ。それでも、問題のある教育方針ではないだろうし、特に何も言わなかった。
「おねが、しゃっす」
 デスクに置かれた書類をちらと眺める。――ああ、サトウさんに頼んでいた書類だ。引き継ぎのためにヤマナカくんにやらせたのか。手にとってページをめくり始めた。……少しめくるだけで、思わず唸り声のような声が漏れる。ヤマナカくんは間違った方向に要領を良くしてしまったのだろうか。
「ちょっと」
 思わずヤマナカくんに声をかける。きょとんとしたような表情をしていて、思わず漏れそうになるため息を抑え込む。
「こことここ、誤字があるし、ここの表現はこっちと矛盾しているでしょう。……サトウさんにはちゃんとチェックしてもらったの?」
 隣で聞いていたサトウさんが、少し目に涙を浮かべて叫んだ。
「きゃあ! ごめんなさい~。ええ、ちゃんとチェックしたはずなのにい」
 チェックできていないからこそ、その書類は間違っているわけだけど。言い訳を並べる教育係の横で、ヤマナカくんはぶすっとした顔をしている。なんだか、自分の性格が悪いようですごく居心地が悪い。私は間違っていないはずなのに……。

 その夜、私は久しぶりに出会い系にアクセスした。ログインした瞬間、次々と届くメール。……まるでハイエナだと思った。しかし、私はそのハイエナに自ら食べられに行くのだ。マッチングアプリが流行しているのに、いまだに出会い系アプリを利用しているのはセックスがしたいからに他ならなかった。
「キョーコちゃんは、普段の仕事って何してるの?」
「うーん、IT系ですかね」
 ここの人たちは普段の私など知らないのだ。この人たちにとって、私はただの出会い系の女でしかない。そう思うとなんだか心地が良いような、少し物足りないような変な気分になる。普段の私の仕事の成果など知りもしないで、表面のやり取りだけで評価される。……しかし、それはこちらも同じだった。何となく気に入らない文言を見つけると、断りもしないでぷつり、とやり取りを止めてしまう。男の人とやり取りをしているとき、ユキの顔がたまにちらつくが、今は私も選ぶ側にいる、という実感が、たまらなく気持ちよかった。――ほら、私、ユキのことなんて忘れちゃうかもしれないよ。
 ひとしきり新しいやり取りと、相手の選定を繰り返すと、なんとなく満足してその日は眠りについた。

(第四話へ続く)