第二話:がらんどう

 肩を抱かれながら、ユキの横顔を眺める。長く伸びた睫毛は、きれいにカールしている。くっきりとした二重。鼻筋はすっと通っている。陳腐な表現だが、アイドル顔というのだろうか。きれいな顔立ちと、見合わないぐらいの低めの声。

 ホテルに向かいながら、ユキはいつものように仕事の愚痴をこぼしていた。ユキのこぼす仕事の愚痴だけは、興味深く聞くことができた。何か返さないと、と必死になった私の、アドバイスになっているんだかなっていないんだかよく分からない相槌にも、ユキはいつも嬉しそうに頷いてくれた。

 今日も、ユキの愚痴にようやく言葉を絞り出したところで、目的のホテルに着いてしまった。――鶯谷は、駅とホテルの距離が近すぎて困る。手慣れた手付きでユキがパネルを操作する。私はぼんやりと、どこかに行ってしまいそうな思考を、なんとかその場に留めていた。

「おまたせ」

 ユキの言葉ではっと我に返り、一緒にエレベーターに乗り込む。乗り込むなり、ユキに唇を塞がれた。

「俺さ、ずっとエッチしたかったんだよね。仕事の間も君のこと考えてた」

 そんな言葉に、なんだかすべてどうでもいいような気になってきてしまって、されるがまま舌を絡ませる。エレベーターが止まって、唇を離す。エレベータを出てから、部屋につくまでの微妙な間はいつまでたっても緊張する。

 部屋に入るなり、すぐさま押し倒された。体をまさぐる手を必死に押さえて声をかける。

「待って、せめてシャワーを浴びさせて」

 ……シャワーを浴び終わると、ユキはテレビのバラエティ番組を眺めていた。入れ替わりでユキがシャワーを浴びに行くと、またなんとも言えない時間が訪れる。私の知らない芸人が、私の知らないギャグをやっている。あれは世の中で流行っているのだろうか。よく分からない。……それより、ユキに早く触れてほしい。胸の高鳴りを聞かれると困るから、知りもしないギャグを眺めて、必死で抑え込む。

 それなのに、ユキがシャワールームの扉を開ける音が聞こえると、私の胸は一層鼓動を早めてしまうのだった。

「身体、見せて」

 そう言いながら、ユキがゆっくりと私のバスローブを剥がしていく。

「きれいな身体」

 自分の身体になんて、全然自信なくて。でも、せっかくユキが褒めてくれたから、否定してしまうのはだめな気がして。私はただ、曖昧にはにかむことしかできない。

 ユキが再び、私の身体をまさぐる。段々と頭がぼんやりしてきて、私は理性を手放すことにした。

 気がつくとユキが鼻歌まじりでテレビを見ていた。

「これ知ってる? 最近流行ってるんだよ」

 テレビで紹介されているお菓子を、ユキが解説してくれる。

「そうなんだ、知らなかった」

 こういうときの私はひどくつまらないやつなんだろうなと思う。私ができるのは、せいぜい仕事の話だけで、世の中の流行りは何も知らない。ユキは気にする素振りも見せず、テレビに夢中になっていた。私はテレビを眺めるふりをしながら、ユキの後ろ姿を眺めていた。

 テレビが一区切り着いたのか、私の方に向き直って、仕事の愚痴の続きを始める。瞬間、心底ほっとする。

「上司が本当に嫌なヤツでさ」

「大変そうだね。でもそんなことまで頼まれるなんて頼りにされてるんだね」

「そんなこと……あるかな」

 アハハ、とわざとらしく声に出しながら、ユキはいたずらっぽく笑った。それから私をじっと見つめてぽつりと呟いた。

「今日はちょっと嫌な気分だったんだけどさ、君に会えて良かった。癒やされたよ。……君みたいにエッチが好きな子もなかなかいないからさ」

 今までの胸の高鳴りが嘘みたいに、冷たい空気が頭から眺めていく。ああ、そうなのだ。ユキにとって私は性欲が強いだけの女で、きっとそれ以上でもそれ以下でもなくて。こんなに胸をときめかせているのは私だけなのだ。

 一通り話し終えると、ユキはそそくさと帰り支度を始めていた。だから、私も何でもないような素振りで服を着替えるほかなくなる。

 駅まで歩く道で、ユキの晴れやかな顔と、私の曇った顔が並んだ。

「じゃあ、また」

 そう言って手を振るユキに、私は精一杯の笑顔で手を振り返す。

「またね」

 ユキとは反対方向の電車だから、駅で別れることになる。ユキの姿が見えなくなるのを確認すると、私は足早にホームへの階段を駆け登った。ちょうど来た電車に飛び乗る。刹那、涙がぼろぼろとこぼれた。

 私は空っぽだ。私には何もない。――ユキの本当の名前も、何も知らない。

(第三話へ続く)